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     「結」(えい)について

 私が嫁いだ時、田が七〇a近くあり、田植や秋の仕事は機械化されておりました。小さな田が多く、昔からの穴が有り水もちが悪くずっと水はけっぱなしでした。その為除草剤も思う様に利かず、田の草取りをしていました。近所は皆兼業農家で同じくらいの面積の家と「結」の仲間が出来て居りました。
 うちの婆ちゃんは、田の草の時期になると一週間も這っていました。いよいようちの番がくると大変です。婆ちゃんは七人で一日で終るようにと、残りそうな田は人の家の田の草取りから帰ってから少しずつ追って助けておきます。そして仕事の仕舞を午後の休み上りにと、気を使います。そして又水加減がまた大変、大水だと草が良く取れず損だし、小水だとこれまた取りにくくて、「このうちのしょうはしっかり取らせずってんでこんなに少なくて難儀だこと」と嫌われてしまいます。私はというと、前の日から「こびり」の準備をします。田の草は女衆の祭で、ごちそうをふるまいます。婆ちゃんに人はどんなこびりを用意したか教えてもらい、同じようなものはなるべくさけこのくらいはないといけないかな………と献立を決めます。家によっては決ったものがありました。おはぎとか、ちらしずしとか、私は炊込おこわを毎年作ることにしました。よなべをし朝は早起きして準備をし七時には田に入ります。そして天気が心配です。うちは田が屋敷内と車で行く所の2ケ所あり、雨が降った時のこびりのお座敷をどうしようと悩みます。当日はとてもにぎやかに朝から笑い声が絶えません、作をほめたり、草が多いの少いのとか、世間話にと大変なもんです。合間に婆ちゃんの「腰をのばしてやってくんなえ」とか「休んでくんなえ」と声が入ります。四年程前に減反や耕地整理で一年田を休む人がでたりして「結」はしなくなりました。うちも二〇枚近い田を四枚に直しました。

                  五岳会外谷秀子

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   戸 隠 講

 私の集落の人達は、地元の氏神様の他に、須坂の米子不動や戸隠神社の講中にもなっていて、毎年お札やおみくじをもらい受付ているのだが、色々な神様を信仰しているので、神様同志のおいだでいざこざが起こることないかしら……。と気になることもあります。
 戸隠講というのは、江戸時代の末期に神参りとして、お伊勢参りや善光寺参りなどと同じ発想で始まったものだそうで、当時は今と追って旅行が簡単に出来ない社会状況にあり、そんな中で神社や仏閣のお参りだけは、かなり自由に許されていて、お参りを兼ねて(お参りにかこつけて?)物見遊山を楽しんだのだそうです。
 戸隠は、手力男命が天岩戸伝説に出てくる岩戸を押し開いた。手力男命が奥社に天思兼命が中社に祭られていて、そして米作りの一番の源である水の神様、九頭竜神が奥社のそぱに祭られているので、農民の信者が特に多いという。
 戸隠信仰の信者は、長野県と新潟県上中越地方の人を中心に北は北海道から東京、名古屋、大阪方面まで約三十万人にものぼるそうです。
 中社では、四月三十日から九月三十日までの三十日の日に、(宝光社は五月十五日から十月十五日)行なわれる。月例祭の時に、それぞれ講を作っている各地区の代表の人々がお参りに戸隠を訪れる。月例祭の時には、御神楽が奉納され、手力男命が天の岩戸を開ける舞いや巫舞があり、又名物のそばをいただいたりして代参りの人達でとても賑やかです。
 私達がお世話になっている宿坊の神官でもある主人の「近頃は、御婦人の参拝客が目立って増えています」という話しを聞いて、今でもまだ戸隠参りという大儀名分を借りなければ、農家の若い主婦達は自由に旅行を楽しむ時間がとれないのかな?とちょっぴり気になりました。
 毎年一月始めに、五穀豊熟祈祷に合わせて戸隠神社種兆といって、米や大豆等の農作物の作柄予想(一月雪多く寒サ厳シ、八月晴れの日多シ)など書いた天気を占なったお礼と、おみくじが信者の家に送られてくる。あくまで占いなのだけれど「それが良く当たる」と農家の人達は正月が過ぎると、そのお礼が来るのを心待ちにしている。
 余談になりますが、戸語中社の社殿に登る入口の右手の木立の中に、戸隠をこよなく愛して詠った詩人、津村信夫の「戸かくし姫」と題する詩碑が人知れずひっそり建っている。私達がお世話になっている宿坊の今はもう七十歳を過ぎたおばあさんの若き日の姿をモデルにして書かれた詩だそうですが、とても心ひかれる美しい詩ですので紹介します。

     戸がくし姫

山は鋸の歯の形
冬になれば人往かず
峯の風に屋根と木が鳴る
こうこうと鳴ると言ふ
「そんなにこうこうと鳴りますか」
私の間ひに
娘は皓い歯を見せた
遠くの薄は夢のやう
「美しい時ばかりはございません」
初冬の山は不開の間
峯吹く風をききながら
不開の間では
坊の娘がお茶をたてている
二十を越すと早いものと
娘は年齢を言わなかった

五岳会 棚橋千代子

 

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ヒイネ休み           古海佐藤マサエさん(七十三才)

 ヒイネ休みは七月八日と九日でした。
 ヒイネと言いますのは、ヒエ苗の事です。ヒエは牛や馬にかゝせない飼料であったのです。人間の食べるアワやキビに似た粒です。
 秋刈り取ったのをたてゝおき、乾いた頃に穂だけ切り落してキネでたゝき落します。青草のない秋の終りから六月頃まで毎日朝、又は夜にイロリヘ大きな馬のナベをかけて、ヒエを煮て馬にくれました。とくに四月、五月は馬を使う月だったので朝と夜二回づつ煮てくれたのです。ですから、かなりの量が必要なので、田んぼのミナクチの稲の育たない所へ植えて、後のたりない分は畑へ植えたのです。
 ヒエ苗は五月の始めに畑ヘフセておき、田植が終り、田休みも終ってから伸びたヒエ苗を取って片手で持てる大きさに束ねて、葉先を切り落して植えます。八日、九日の遊び日迄に根付いたヒエのそうやく(土よせ)を終らして、らくらく休みに入る、それが終るとすぐ田の草取りを始めたのです。一つひとつ仕事が終るごとに体を休める様に考えてあったんだなあと感心します。

 吉川 栄子記

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    黒姫山の伝説

 昔、中野と言うところにりっぱなお城がありました。其のお城には一人のお姫様がおりました。このお姫様は少し色が黒かったのですが、何しろ一人きりの姫君なので蝶よ花よと育てられ、何時しか年頃となり黒いながら美しく成長されました。
 寒い冬も去りやがて春になり、お城の庭にも桜がきれいに咲き揃ったある日の事、殿様は家来達を呼び花見の宴を開きました。呑めや唄えの大さわぎ、そんな時に桜の木に、大きな蛇がからみついて居るのを誰も知る由もありません。
 突然目の前に若く美しい若者が現われて姫に話しかけました「お姫様私と一緒に踊って下さい」と、姫は一目見たとたんに其の若者の美しさに心をうばわれてしまい、日の暮れるのも忘れて踊りました。
 其れからの姫はまるっきり寝ては夢、覚めては現つ幻にと、やるせない恋の病に取りつかれてしまいました。殿様は心配して、もしか話に聞く山の主の大蛇かと思い、大蛇であれば今度来たら何とかうまく追い返すか、出来ればしまつしなければと思っていた時に、又其の若者が現われてぜひ姫を嫁にと言って来ました。殿様は思案をめぐらせ若者に言いました。お城の廻りを走って馬に勝ったら姫をやろう・・・・と、殿様は家来に命じて五寸釘を城の廻りにさかさにびっしりと打ち込んで若者と家来の乗った馬とが競走したが、何せ釘が打込んであるので、若者は腹から真紅な血を流し走りましたが負けてしまい、姫に「決して諦めないから」と言って、いづこともなく立ち去ってしまいました。
 其の年の夏お天気続きで雨がなく、中野の町や村の百姓は稲が枯れてしまうと言って殿様に雨ごいをして貰うべく、お城に大勢でお願いに来ました。殿様も村人達と一緒になって山に向かい一生懸命御祈祷を致しました所、パラパラと雨の音、皆の者大喜びで家へ帰りました。ところがどうしたことか、雨はドンドン降り続き、田んぼの稲も流される程に降り続き、町も村も水びたしになり、殿様もよくよく困り果て、これはきっとあの大蛇の仕返しと感づきました。そこで心をきめて姫を手許に呼び、もうこうなっては致し方ないと話した所、姫は言いました。「父上、私は庭の池に自分の姿をうつした所、私の顔は人間の顔でなく蛇の娶になってお池一杯になってうつって居りました。私もあの若者を好きになってしまったのも因縁ですから私の事は諦らめて下さい、私をあの若者の所へお嫁にやって下さい、そうすればお城も村人達も皆助かり幸福に暮らせますから」と言って、お種と言う女中一人をお供に連れて、山に登るべく柏原へとやって来ました。そして途中、雲散寺と言うお寺へ立寄って一泊し次の日、今の黒姫山へお種と共に登りました。山の途中一休みした時、供のお種はお姫様の最後の姿を見るにしのびず、山の中程にある池に身を投じて果てました。これが現在の種が池と言うのだそうです。七ツガ池と言ってクシ、コウガイ、カンザシ、等七つの池がありクシは櫛型、コウガイはコウガイ型と言うように夫々の型の池があると言う昔からの伝説です。色の黒かった姫だったので其の後山の名前も黒姫山と呼ばれるようになりました。姫が身を投じて果てた日は七月十七日といわれます。
 今も七月十七日には黒姫祭りか行われます。雲龍寺では毎年七月十五日に山の道草刈をし十七日には近所の善男善女が集まってお詣りが行われます。其の時、不思議な現象にその日は朝からすごくよい天気でも、亡くなった姫の涙雨と言ってたとえ十粒でも雨が降るといわれます。「あゝお姫様の涙雨だ」と村の人々は口を揃えて話します。そして今尚この雲龍寺には小さなこけむした姫のお墓があり、「あっこれがあの姫様の墓なのか」………と、こゝでお姫様が一休みされ、わらじをはきかえて、と思うと胸の熱くなる想いがします。又、黒姫山の頂上にも小さなホコラがあり、今尚登山者を守るかのように………

                         つもり会 小林 ケサオ

 

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もらいぶろ

            諏訪の原大西徹さん(六十才)

 今から四十年くらい前までは、近くの親せきとわが家とは田植えなどの(結)仲間であり、また、もらいぶろでお互いに行き来をしていた。小学生のころ、遊び疲れて家へ帰ってくると母親から「今夜ふろをたてるから親せきへ使いに行って来い」と言われ、「今夜、ふろ入りに来てくんない」と親せきへふれて歩いたものだ。
 そのころ、大概の家に入ると、広い土間かあり片方は厩(うまや)になっており、一方は居間へ続いていた。その土間の片隅にふろ場があり、十ワットぐらいの小さな電球がつり下げられていた。ふろは木製の据えぶろで、出ベンのような銅製のカマが付いていた。どの家の洗い場も、すき間風が吹き込んで寒く、冬などは体を洗うのもそこそこにふろへ飛び込んだ。 ふろへ入ったころを見はからって、家の人は「なっちょだね」と声を掛けてくれる。湯加減はどうか、と聞いてくれるのだ。その言葉に感謝しながら、手早く体を洗い、次の人にふろを譲る。何家族かが入ることが多いので、一人でいつまでも気楽にふろを使っているわけにはいかないのだ。
 ふろから上がると、茶の間のテーブルにはすでにお茶の用意がしてある。季節の煮物や漬物をつまみながら、世間話に時を過ごす、各家庭それぞれ子供連れで来るので、結構にぎやかになる。子供たちは子供同士で遊びふけり、親たちの話が長引くと、その場で眠り込んでしまうこともよくあった。もらいぷろは子供心にも楽しいものであった。

                     黒田ゆり子記     

 

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稲 こ き

            落合小林マツイさん(八十三才)

 おらの子供の頃は、千把ごきと言って鉄の刃が二十本位並んでいる道具に稲の穂を引っかけて引張ってこくやり方で稲をこいていたっけ。
 それから昭和に入って足踏みの稲こきが出て来たんだよ。最初の足踏みは片側に足踏みがついて居て、一人しか出来なくて胴の鉄の棒も真すぐな棒が打ち込んであったな、それがだんだん改良されて今残っている二人で足踏みが出来て、胴に打込んである鉄の捧も曲っている足踏み稲こきとなったんだよ。
 刈って乾してある千把束の稲をお天気の日に露が落ちるのを待って、稲乾しといって、みんなひっくり返して乾し書御飯を食べからにおに積んだり、家でこく家は馬で稲を家まであげて夜なべと飯前仕事でこいてしまうんだ、おらは家へあげなかったから、朝明るくなるのを待って田んぼに行き場はねをして、始めたもんだ。何しろ根気仕事なもんで朝早くからやらないとたんとこけねくてな。
 稲こきは一日中足で踏んでいる仕事なんで、おら足が弱かったから、稲を寄せたり、籾の始末をしたり下働きしてたよ「稲こきしねかったら籾背負い出せ。」と父さん(夫)に言われて、荷車の所まで麻袋に詰めたのを一俵づつ背中で背負い上げたもんだ。子供が腹にある時なんか、なっちょも流産してくれゝばいゝと思って、一生懸命背負ったけど流産しなかったな。子供も七人目、八人目となるともういらないと思った、せつなかったよ。
 こき落した籾の山の藁くずを取り、籾の山の上をなぜる様にして、ボャツア(籾が全部落ちなくて穂にまだついているくず)を取り、籾どうしにかけてきれいな籾とボッツアに分けた。秋の仕事は何をやっても手が荒れてなー、今の様に手袋なんかあるじゃなし、この仕事は特に荒れたつけ、大ていのしょは、あかぎれをきらしていたよ、このボッツアは別にカマスに詰めて家に持り帰り、お天気の日に庭に拡げて乾し、横ぶちぎねでは
たいて落とし籾どうしや唐箕にかけたもんだ。
 籾乾しもさんざやったなー、朝天気になりそうだと庭一ぱいに下敷きの藁を敷いて、そこへねこを敷き籾を乾したもんだよ一日に三、四回かんまして、夕方唐箕にかけたりして穀箪笥に入れてしまったな、籾を一箕づつ頭に乗せて穀箪笥まで運んだっけ。
 又、昔の稲は籾の先に長い毛があって、それを乾す前や、乾してから籾はたきと言って横ぶちぎねで、はたいて落したもんだよ、今は改良されて無くなったけど…………楽じゃなかっな汗びっしょりになってはたいったっけ。

小林三枝子記

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    お 吸 物

 婚礼の時にこの膳には是非必要なとりの吸物が有りました。
 手伝いの男衆が台所にむしろを敷き、三十糎位のレールでかりの骨を金づちで細かくはたきつぶし、それを丸めて「ダンゴ」にし、さゝがきゴボーを入れてお吸物にした。とても美味しかった。

     さおもち

 結婚するとお歳暮には、さおもちを持って行きました。二十糎位の巾に切って両親の揃って居る家は両端の耳を切らず、片親しかない家は片方の耳を落して二枚重ねて白い紙をかけ、紅白の水引をかけて、実家、御仲人さんの所へ持って行きました。

    嫁招び

 婚礼、里帰りが終ると、御仲人さん宅へ反物等御礼として持って、母と三人で招かれて行った。お茶菓子にじゃがいもをつぶしてうす紅と砂糖の入った茶布しぼりがお皿に付けて有ったのが美味しかった。又お節句には、笹餅、柏餅、秋泊りに行った時は、おやき等重箱に入れて御仲人さん宅へ持って行きました。両方の家から持って行った時は二人で、嫁さんの家からの時は、一人だけで寄んで頂き、(土産寄び)よくおはぎを作って頂きました。

     さゝの実会 黒田直子

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   お参りのこと

 私が生れた信濃町六月集落の方では、二月頃になって雪が大体落付いた頃、毎年赤沼や長沼の方からお寺の坊さんがお説教にやって来た。時には越後の高田からもやって来たものだ。又この高田の坊さんが来ると、大雪を持ってくると言われ、いつも雪の日になっていた。村には何軒かこのお参りの宿をする家があって、私の生れた家でもよくこのお宿をやったものである。
 お参りのある日は、学校から帰るとお勝手の方で「とんとん」とそばを打つ音が聞えて来る。私と弟は母がおそばを打つ横に座って見ている。くるくると巻いて自分の前の方へ引き寄せては「とんとんとん」と打つ、打ち板の上から向ふへ広げたしぶ紙の上まで大きく広がると二つにたたむ、時々ちょっと指がふれておそばに傷がついたり、穴があいたりする事がある。「あっ」と言って母は顔をしかめる。「さあ二人で分かれてお参りのつけに行って来いよ」とそばを切り乍ら母が言う。道をさかいに両方へ別れて「こんやうちへお参りに来てくんない」とふれてあるいた。中には「ありがとう、おだちんやるよ」と言って、飴玉や変り玉をはんてんのポケットから出してくれるおばあちゃんもいた。弟はいつもその家の方へ行くと言った。そんな事でけんかをして母にしかられたこともあった。しかし不思議なもので、いつも母のそば打ちを見ていた弟と私が、いま二人とも誰に教わるともなく手打そばをやるようになったのは、子供の頃の母の手まねでやっているのかも知れないと思い、これが本当の門前の小僧なのかと自分でもおかしさがこみ上げる時もある。                 

さゝの実会 黒田ゆり子

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   蕎麦はたき

 「雨がふるといいなあ」と子供ながらそんな日曜日を期待し心から願ったものでした。なにしろ、あの頃は子供の手を借りての農作業が多かったものですから、日曜日になると手伝いをさせられたものでした。
 蕎麦はたき頃は、秋雨前線の通過する時期でもあり、親としては早く晴れ間をみて蕎麦はたきをと、やきもきしていたと思います。
 長雨が続いて刈りとった蕎麦に芽が出ていた記憶もあり、時期を見計って叩いたものでしたから、家族全員の召集がかかり子供であった私もいや応なしで駆り出され、入れ番をさせられたものでした。
 大人は、長い棒ではたいて、その中に蕎麦の刈りとった束を抱きかかえて少しづつタイミンダよくはたいている中に入れてやる、そんな仕事が入れ番でした。それもきまって子供の役割となり、畑中の刈りとった蕎麦を持ってきては、入れてやる。タイミングが外れると棒に当り、はたく人が大変なんです。束を持ってジーと叩くところを見て入れる。はたいている棒が不思議とリズミカルなものでしたので、ジーと見すぎてしまって、タイミングを外してしまったりもしました。そんなときには、きまって母親は「ほら入れてくれや」と声をかけてくれたものでした。
 欲もない子供でしたので収穫がどうであれ、畑中の蕎麦の束が少なくなると嬉しく思ったものでした。

                  草の芽会 小林浩子

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            落合和田千代吉さん(六十二才)

 川とは、ここでは軒下を流れる小さな川を主体に水道という文明の水になるまでの生活をする水、川にまつわるものを経験の中から書いてみた。
 川の水は、三尺も流れると綺麗になると祖母はよく言っていた。遂に言えば三尺も流れたら綺麗になる様に川をよごさないという事であろう。
 「汲みどこ(汲み取る=汲みあげて器などに移しとる(広辞苑))川筋の家には、心ず汲みどがあった。ここはその家の台所に位置した場所であった。「洗いぬけ」(のけ)をする場所で食器や鍋、釜の洗い場、そのために水切棚も作られた。洗濯のすすぎ場所でもあった。
 野菜などを洗うところ、秋の野沢菜の時期は、女衆は川に板を渡し洗った野沢菜を高く積み上げた。どの家も冬ごもりの準備で四斗樽二本位は漬けただろうか。
 風呂の水を汲む。両手に。バケツ(一八ℓ入)をぶら下げて川から水を風呂にかいこむのだが(五衛門風呂、二ツ口釜風呂オタフク釜風呂)二ツ口釜風呂は釜をかくして火を焚いても良い状態にするにはバケツ(一八ℓ)十五ケ必要であった。この仕事が子供の仕事でいやであった。しかし、この風呂が焚かれると隣近所の風呂の「えいっこ」をしている家へ「風呂(せいふろ)がおいた事」を知らせると五人位はもらい風呂に来る。
 その家の親爺さんが一番風呂だが、その次が近所の男衆そして女衆、その家の女衆、特に嫁さんが最後の湯となる。大体これが三日間位は続く。風呂の水は垢で黒くなる(とめ湯)風呂の後はお茶をのみ夜を忘れて話していた。風呂桶はたいてい入口の土間の片隅に置いた。そしてタライに板を渡してそこが洗場である。だからざっと汚れたところを流してあとは風呂の中で、ごちゃごちゃやって「いい湯だった。」で終りである。今日温泉に行っても人はタオルを湯ぶねの中に入れる人はないが、戦後の早い時期は温泉の中でもタオルで体をごちゃごちゃやる人が多かった。温泉宿によっては「タオルを湯の中で使わないで下さい。」と貼り紙が出されていた。家庭の風呂場の仕組が変わると共に温泉場のマナーも良くなって来ている。(簡話休題) 
 チンボが曲ってしまうぞ!・子供の頃(低学年児)川に向って小便をしようものなら「こら川に小便する奴があるか、チンボが曲って(或は腐る)しまうぞ。」と大人なら誰れでも叱った。しかし、面白がって大人のいないところで「川の神さん小便しってごめん、ごめん。」と称えなから小便した事もある。その事は川を汚してはならないものだという事が頭の中にあったからであろう。
 当事の茶好きの老人たちは朝早く起き川水を鉄びんに汲んで炭火で沸かした。朝茶の味は格別だと言う。水は流れ流れもまれるとうまいのだという。
 ″川水を平気で飲んだ″小学校の帰りや遊びぼほうけて喉が乾くと川に四ツんばいにつんのめって川水をゴクゴクと飲んだ。汚れを知らぬ児らの処作であっただろうか。
 朝起きて外に出て用をたす(ここら農家は、ほとんどの家の便所は外に独立していた)そして川の汲みどでロをすゝぎ顔を洗って東の空に祈った。朝の川水は綺麗であった。井戸のある川筋の家の人も朝のつとめは川端であった。
 人の住みつくところは、交通便より水便を第一義としたらしい事はいろいろの中で知る事が出来る。水辺に定着し、のち井戸によって水を得る事を知って川筋より遠く家が建てられ、そして井戸水はより衛生的である事を知り井戸を掘る様になった。しかし井戸があっても風呂の水とか大量に必要とするときは川水に頼ったものである。
 小川は、幼児等の川遊び、大川は夏ともなれば水泳プールとなる。水車屋の水取入口は堰止められて適当な深さと広さは水泳場となる。この水泳場も子供達は一人では行かれない、必ず上級生がいる事、集団で泳ぐこと等暗黙の条利が出来ていた。
 川を綺麗にしようという事は誰れも特に言わないが、親から子への日常生活の中で体得していた。だから川に物を捨てたり流したりはしない。例えば洗濯の水は庭にまいたり、畑に捨てた。特に風呂の使い水や、落し水は、溜にためたり肥桶にて畑の野菜の合間に流した。だから川底の小石や砂はいつも光っていた。
 泥貝が(学名は知らないが横に長い)多くいた。これを秋口にとらえて煮て食.へると仲々の美味であった。そして小魚も多くいた。祖母が病気がちで病んだあとの食事に竹ザルで小魚をとって来て食べてもらった。「うまいうまい。」と言われて子供心に、又とって来てやろうと思った。
 冬の雪の晴れの日は、わんぱくどもが集って川溜、雪を一箇所に大量につめ込んで川水を堰止めると逃げ遅れたドジョウやヤマメ・ハヤ・泥貝等が.バケツー杯にとれて歓声を上げたものである。
 川は生活用水であり、ここら農村の文明開化の場所でもあった。そして、田畑の灌漑用水としても重要なものであった。水利権という争いは往時の記録と近代に至るもそれがあった。しかし水系は、水利用のきまりが定められてこれを守る様になって争いは小さくなっていった。
 農の五月という多忙期は農耕馬が(山中馬)鬼無里村方面から五月下旬に来て、六月上旬には四斗俵を馬の背に二俵背負って帰って行くのだが、この時になると、この小さな集落に馬が溢れる。一年を通して馬をつないで置く家一・二戸でその他は、季節馬として借りた。これが夕刻になると川巾の広いところで馬を洗う風景が出現する。又人間も馬と共に泥んこになった手や足や着ているものの泥を洗うから、この時期は川水も薄く汚れる。しかし、朝は又澄んだ水となる。
 戦後の文化は、ここら農村の生活様式を変えつつあった。中でも水は、水道へ変る画期的な事業もあった。各戸が割当の労力と負担金を出した。しかし、蛇口をひねって水が出た瞬間、 「ウァー水が出た。」の一言であった。
 川水にたよっていた諸々の苦労も終ったと思った。″とまれ″生活用水として使用していた川には魚もいない。泥貝もいない。子供の水遊びも出来ない下水道化した川底は黄色じみた小石が流れて行く。川から教わった幼児から子供へ、そして大人の人間関係のきづなもうすよごれて流れてゆく。

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  大正の頃の結婚式の御馳走について

                    諏訪ノ原黒田定さん(八十三才)

 昔しや、婚礼と言えば三日位さわいだもんだよ。親類のもんは前の日から手伝いに行った。ごぽうを切ったり、ラクダ芋を煮たり、おわんやお膳をふいたりして間に合せたもんだ。昔からの家には土蔵に「ぜんわん」がしまってあって、さわぎごとがあるとそれを箱もてら帯で背負って家に持ってくるんさ。
 モミ(絹)のきれやなんかできれいにふいて使うんだよ。お椀には「親椀・二の椀・汁椀・吸物椀」があって、その他にもめいめい盆と言ふ小さな一人分のお盆があって、婚礼が始まる前に、着いたお客さんから順に「おつき」を食べて貰ふんだよ。
 近い親類しょうはお菜ぐさと言って前の日に家にある野菜や山菜等を持って手伝いに行くんだよ。たまに兄弟姉妹寄って一緒に料理を作ったりして手伝ふのもたのしみだったもんだよ。 料理は前の日から料理番が来て、大きな養蚕火鉢にかたい炭をいっぱいおこして、魚をあぶったり、吸物に使ふ魚を煮たり、厚焼き玉子を焼いたりしたもんだよ。料理番は素人の人で器用な男の人をお願いしてやったもんだよ。料理の材料は前もって家の主人が長野まで買いに行ったもんだよ。婚礼の日は朝早く家のかあちゃんが起きてごはんを焚きつけると、そこへ近所の手伝い衆が来て朝飯の用意をしたり、赤飯の用意をする。昔から赤飯には奈良漬がつきものだったから漬物を切って用意したものだ。
 取り婚礼だと昼前はおちつき(赤飯)の用意をして、お昼を食べるとお客さんがぽつぽつ来始めるので、おちつきを食べて貰う。
 婚礼は大体四月頃だから、嫁さんの行列が見えて来ると、親分になった人だの、小姑に当たる娘等が「近迎え」と言って途中迄迎えに出て家の中へ迎えるんだよ。
 夫婦盃・親子盃・兄弟盃・親類盃が終るとお膳が出る。真先は盃と箸、ごぽう・数の子・さしみ・干し子・向ふ皿・ロ取り等をのせて出すんだな。それから宴会が始まるとお吸物(一番先は魚の吸物)が出る。次に海老吸物が出る。そこへすずり蓋が出る。頃合いを見て二の膳が出る。二の膳には「おひら」と「ちょこ」と「とり吸物」が出るんだよ。引き物は塩引き「鱒」等が使われたが、その他に取り廻しとして大根のきんぴら・薯のっべや青菜のおひたしなんかがあったな。
 お給仕は親類の子供たちがたのまれて喜んでやったもんだ。婿は羽織袴に紋付きでやったもんだ。夫婦盃に出たあとはお勝手でお爛番をしていたもんだ。
 嫁にくれる側では、午前中婿入れをして嫁側の親類に婿の紹介をするんだよ。
 婿入れには仲人夫婦と親分とか、兄弟代表とか親類代表がついて行く。その時みやげ物を両がけに入れて子供がかついでゆくのさ、宴会が始まり、お昼が出て婿さんが帰ってから見立ての式があるんだよ。それは近所の親類の女衆や友達なんかが招ばれる。 これは割合に簡単に済ませて嫁に出るんだよ。次の日は近所の女衆を招いて「見つめ」と言う儀式がある。その日はそれで終り翌日里帰りになる。
 里帰りには、新夫婦と女親と女親分がついて里へ帰るが、その晩は新夫婦は泊って親たちは帰る。翌日嫁側の女親が娘を送って来て、隣近所へ娘をよろしくと言って手拭等を持って挨拶にまわったもんだよ。
 それで一応終りになるが、いまのように新婚旅行もなく嫁さんも疲れたもんだ。
 或る時、村の若い娘の婚礼に村の若い男しょうが羨ましがって替え歌を作ったのも忘れられないよ。今でも覚えているよその歌は、

   OOさんの婚礼はいつですか
   時は四月の中ぱごろ
   役場の村長さんが御仲人で
   向うの父さんが親分で
   花嫁さんたらべっぴんさんで
   パイパイのパイ
   パリコとバナナでパイのパイのパイ

この歌のもと歌はハナチャンタラベでヒンサンと言う歌で

   世界の平和はどうなるの
   フランスパリーに集りて
   学ばぬ料理は西園寺
   どんな御馳走が出来るやら

                   黒田ユリ子記

 

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  衣について

              黒田定さん(八十四才)

 学校へ行く時は、冬は近くの子供は藁沓で、遠い子供はうそかけ等だった。学校の玄関の辺に並べる所があり、皆(皆んな)のを並べておくと帰りには乾いていた。
 ネルの股引や、ハバキをはいた。今のオーバーやマントの代りに、フランネルの布を四角に縫ってもらって、それをかぶって行ったものだ、普段は着物で式の時は袴をはいた。
 呉服屋さんから木綿糸を買って来て家で機織で織った。木綿糸は大体紺か浅黄だった。ガス糸を絹に入れて織り子供物は大縞に、大人物は小縞に織った。
 ガス糸は大体黄色か茶・緑・ねずみ色だった。夏物は夏物らしく薄色で、冬物は冬物らしく濃い色合に織った。足袋は表は紺、裏は浅黄にして家で縫った。
 紬、家で蚕をかい繭から糸をとり平絹といって着物にした。絹糸も小梨の皮で茶色に、くるみはねずみ色に染めた。
 木綿の反てんの衿は白地を漆の葉で染めて、鉄分(そぶ)を含んだ川(せぎ)の中へ埋めて居いて乾かし、それを二、三回やって黒く染めて、絆纏の衿や袖口にした。
 白布も織って雪の上にさらすと白くなると言ってよくやったものだ。

     嫁に来る時(大正十三年頃)

 糸を買って来て家で糊をして、一枚一枚機で織ってもらって持って来たものだ。よそゆきは細を縞に入れて細縞に、ガス糸を入れてガス縞にした。
 木綿織なら一日一反は織れた。質織を織る人もいた。そのもうけで自分の物を買った。
 此の頃大正絣が出て来た。
 夜はランプで夜なべ仕事ははた織の「くだ」を巻いたり縫物等をした。田んぼへはくもゝ引も家で型紙をとり縫った。
 おばあちゃんの上の子供達の頃は(昭和の始め)大体未だ着物を着ていた。学校へ上る時に始めて洋服を買う位だった。
 子供達のズボンは大体「つぎ」を当て、はかせた。裏からそっと当てたり、最後にはおっかぶせつぎをした。冬の靴などもゴムのりでついだものだ。つぎを当てたりくつをはってもらった事は私も想い出した。

                        黒田久美子記

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   父母の思い出

 私は大正二年八月十日五人の長女として生まれ、七十四才を迎へました。黒姫・妙高・飯綱と三山に囲まれた大自然の中で長い人生を暮して来ました。
 七十有余年ともなれば、色々な事が沢山ありました。幼い頃は何も知らないで両親に可愛がられていましたが、六才頃、私は母の大事な布を持ち出して、近所の友達と人形作りに使って皆んなにあげてしまいました。父母が昼あがりに帰えり、喜んで話す私を父がそれはそれは厳しく叱りました。私は息も出来ないほど押し押さえられ、大叱言を聞かされました。はじめて此れが悪事である事を、聞かされました。それに今一度父に叱られました。大勢の妹達のいる時、オコタで学校の国語の本を読んでいました。小さい妹達はその本を欲しがりましたが、私は借しもせず、自分の本を読んでいましたところ、あまり騒がしいので、父が立ちあがって「見せられない物や、貸せられない物は小さい者のいる所に出すな」と本を取りあげられ大叱言でした。日頃怒った事の無い父でしたので、父に叱られた事は二回だけ記憶に残っています。
 此の強い優しい父が、私が十一才大正十二年九月十四日にわずか二十日ほど床について亡くなりました。父が病気になり母は大変でした。一番下の妹が二才でまだ乳呑児でした。私と九才の妹と二人で病気になった父の為に学校へ行く前に赤渋から町まで毎朝牛乳を買いに行きました。牛乳屋さんに着く頃になると、東の空から太陽が上りました。牛乳を持って帰り、それから学校へ行き、帰りには時どきお医者さんへ行って父の薬を貰って来ました。子供で何んの心配もなく、ただ母の言う事を聞いてやっていました。亡くなった日も牛乳を貰ったり、薬を貰いに行って来ました。お医者さんが東京の震災の話をしていたのを覚えています。汽車が不通になったとか大変な事だと、誰かが話をしました。
 帰って来ましたら、「父ちゃんが死んだよ」と言われ子供ながらも悲しかった事を覚えています。すべての行事が済んで、母子六人になった時は淋しく、夜は眠れなかったです。女ばかりの生活が始まりました。母は昔の人で「いろは」ぐらいは読めましたが、小さい私達を相手に暮して来ました。十七才の秋頃ポロな家を建て替える事になり、秋の取入れが終ると、母と私は山仕事に行きました。新しい家に使う屋根のタル木の材料切りをして、家の近くまで背負い寄せました。雪が降ると藁仕事の縄ないをみんなでしました。十二月から私は補習で学校、妹達も全部学校で昼間は母一人留守番で、私達の夜作業の下準備をしていた事を思い出します。学校から帰って藁を叩く者、縄をなう者で働き、屋根に使う太縄、壁に使う細縄と使うだけは全部作り、三月雪の消えるのを待って、庭の田んぼへ家を建てる事になりました。
 母が田んぼのつくり土の上へ、家を建ててはいけないと言ったので、全部取りのぞいてその上に赤土を敷く事になり、母がスコてフで取りモッコに入れ、私達姉妹で下の田へ運びました。半日もすると手が痛くなり、首から肩へ縄で吊ってもらいました。縄を利用すると少しは楽でした。家は間口八間、奥行五間の平家で部屋は広く、田の宇型に造って貰いました。四月建前をして六月引越をしました。新しい畳の入った部屋で、木の香も良く廊下もあり、陽ざしが一ぱい入って嬉しく、今も忘れられません。そして春高等科を卒業した妹が、七月に東京の知人の家へ奉公に行きました。私も若い時の事ではあり、今になり何んとも言えない気持です。私はその後、母と農業をしながら営林署で働いたり、冬になれば池の平の旅館で働き、冬も暇があれば炭俵を編んだり、縫い物をしたり色々の講習会にも出て習い事をしました。妹達も卒業後、社会人になりました。何年も女だけで暮した。平凡な単純な暮をした時代が幸せでした。大きな声で叱った事も無く、母は無口でひたすら働いた。母が八十六才で亡くなるまでの毎日は、私達に人生の教への鏡でした。
 二十四才で結婚を、二十七才で夫が出征、二十八才で長男出産、三十二才夫が復員、妹達二人は満州大連から二人づつの子供を連れて引揚、妹達も大変、私も大変でした。それから私の真の人生を歩いたように思います。
 亡き母に感謝しながら、毎日を暮す今日此の頃です。

                  つもり会 小林とよ

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   機織り

            落合中田ひめさん(八十四才)

 十五、六の時から、おら機織り習ったもんだよ、十八位で本織りが出来るようになったな、十九の時この家へ嫁に来たんだが、ばったん織りと言って足と手を使ってなげびを投げ込んで織っていくんだよ、生まれた家ははたごを縁側においたが、こっちの家は座敷に置いたな、機織りを始める前の下順備が大変なんだ、小くだと大くだとがあって大くだは二十四本で縦糸になるんだ、小くだ巻きは子供の頃から手伝ったもんだよ、あすびかけなんか男しょに手伝ってもらった事もあったな。
 がす縞を織るには、染めてある糸を買って来て、たて糸にしがす糸を割糸にして使うから、一ころ買ってくると十二反も織れたな、木綿は糊して織らなきゃなんねから、冬だってあんまり寒じる時は凍みるからだめなんだよ、寒明けてお天気のよい日を見はからって糊をしたもんだ。木綿機は絹機と違って一日根気よく織ると二反位織れたよ、毎晩十時頃まで夜なべしたっけ、こんだはどんな縞にするか考えるのも楽しみだったな。
 昔はみんなえっぺ蚕を飼ったから蚕が上がると、中繭から座ぐりで糸をとってしまっておいて冬になると平絹を織ったもんだよ。縦糸だけ糊をして横糸をぬらしてな、平絹は一日織っても二尋位しか織れなかったもんだ、一尋は六尺だから六尋で一反かな、二反で一ぴきと数えたもんだよ、一反百二十匁あるといゝ反物だった。
 何しろ冬の仕事だし、今のようにストーブある訳じゃなし、とってもさびくて着物の裾を紐でしばって織ったもんだよ、まだモンペもなかったしね、牟礼の紺屋さんがよく来て居たから染めてもらって、子供を嫁に出す時みんな持たせてやったな、人にもよく頼まれて織ったよ、昭和二十五、六年頃までやったけなー、今着ているこの着物も自分で織ったんだよ、昔だって機織りをするもんは、あんまりいなかったな、ボロ織りもよくやったよ、布を細く裂いて物指を先につけて横にさしながら織っていくんだ、それはおもに帯にしたけどね。
 あの頃は機織りしたり、針仕事したりで、冬中忙がしかったな、家中のもんの着るもんを縫い返しをしたり新しく縫ったりしたんだよ、書間張板に張って夜なべに縫ったもんだ、暮には正月までに間に合うようにやったし、三月は冬織った木綿縞を四月から、学校にいく子供に縫ってやったりで、とっても忙がしかったよ。

                     小林三枝子記

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  はた織り

      仁ノ倉服部はつ枝さん(八十四才)

 二・三月頃織る。
 呉服屋から糸を買ってきて家の者に織れと言われた。最初の習いはじめは、お母さんに縞を帳面にはってもらい真先に木綿から手がかれてから絹に入った。管に縦縞割をするのは父親に組んでもらい、夜は縦の糸を巻いた。縦は大きな管で横は小さな管で昼には横の糸を巻いた。小さな管に巻き付け一寸濡し糸におしめりをかった。胸元に入れておき、ちょう度しめり具合をみつつ織ったものである。濡したままで放っておけば凍みる心配もあった。細かい仕事は夜の暗い灯のもとでは無理であったから明るい時をみてやった。今のように暖を取る方法もなく寒い物置や座敷の隅がはた織の位置する所であった。
 ほんまゆ一貫〆から一反織り上げて十円もらった。嬉しかった、当時の賃金は女衆の手間は二十五銭であったから大変な額と記憶している。昭和七・八年の頃のことであった。まゆから糸をとる講習会もたまにはあったが、姑さんに「暇」がもってなくて出されなかった。しかし、おお姑さんには行ってこいと言われて少しは出ることも出来た。教わったから糸もとれた。この仕事は根気のいる仕事だったよ。                     

服部秀子記

 

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  地蔵講について

               諏訪ノ原牧野なみさん(八十才)

 なみさんは隣村の三水村倉井から諏訪ノ原へお嫁に来た。諏訪ノ原の地蔵講はなみさんがこの家に来た時からずっと地蔵様をこの家にあづかっていたのだよ。「まあちょっと座敷へ来て見てくんない」と座敷へ案内して貰った。なる程古びた木箱の
中に木像様が黒々とした肌をして、柔和な顔立ちで立っておられた。箱の横には、明治四十四年に舟岳集落の青柳さんと言う大工さんが作ったと書いてあったが、地蔵様はこれよりずっと前からあったらしい。この地蔵様を前にしてお鐘を鳴らし、大きな数珠を廻し乍ら地蔵講をする。集まる人は禅宗の宗派の家族となっている。終ったあとは季節の豆や大根煮物などでお茶を飲んでもらって帰るんだよ。

                     黒田ユリ手記

 

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   ごぜさんのこと

           諏訪ノ原黒田定さん(八十四才)

 春四月ごろになると、越後から瞽女さが来たもんだ。手引きと言う七?八才位の女の子が道先立って、そのあと目の見えない瞽女さんが三人位ついて来る。前の人のしょっている小さな荷物に手をやり乍ら、一軒づつごぜ歌を歌っては米やお金をもらって歩いたな。
 夕方になると、毎年泊めてもらう家へ行ってわらじをぬぐと宿の人の子供たちが村中へ「今夜うちへごぜさんの唄ききに来てくんない」とふれて歩く。夜になってぞろぞろと聞きに来る人達は、子供から大人まで五十人位だったと思うが、瞽女唄は忘れてしまったが、時々サノサ節なんか歌ったな。次の朝、朝飯を食べて、竹の小さな行李に御飯を詰めてもらって又、旅に出て行ったもんだ。

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    蒲原獅子のこと(越後獅子)

 春雪が消える頃になると、越後の蒲原郡から蒲原獅子がやってきたな。青や赤に染めたとりの羽を帽子につけて、親方の太鼓に合せて逆立ちやいろいろな芸をしてみせるんだよ。庭先で芸をやってみせてお金や米をもって行くんだよ。

     三河慢才のこと

 静岡県の三河から農家の人が出嫁ぎで漫才をやりにくる。二人一組で鼓をたたく人と舞をまう人と二人で、太夫と才造と言った役割で、これもお金や米を貰って行ったもんだ。今にして思えば、これが農家の出嫁ぎの「ハシリ」だったのかな。

                     黒田ユリ子記

 

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    ボヤ取り

       仁ノ倉服部はつ枝さん(八十四才)

 秋の仕事がすべて終ると雪が来る前に冬仕度としてボヤ取りがある。一冬中いろりで焚くボヤを用意する仕事がある。牛を引いて弁当を持って山へ行く。ポヤは六東で一段といい「ボヤにょ」を積んでおくと「食べるものや金には困らない。」とはやされた。
 二月中旬頃から「カチ渡り(カンジキ渡り)」の出来る頃には、そりを引いてボヤ拾いがある。雪や風で折れた杉や雑木の枝折れを拾い集めそりで引きおろす。雪の上から高い木々の枝にも手が簡単に届いたものだ。

     カヤ刈り

 萱ぶきの屋根を持つこの地方にはなくてはならない仕事である。雪の来ない前の大切な仕事の一つでもある。弁当を持って一日黙々と刈る。なた鎌で刈らなければならず、鎌を研ぎなれない者には大変な事であった。刈っては「ともすげ」でまるけ雪が来てもよいように立てておく。そして馬や牛につけてひきおろす。
 「カヤ売る者バカ、買う者もバカ」と言われた。萱は一日刈ってもろくに刈れない。買う者にしても葉や草が入っている物
に当ると買い損になるという事だ。
 萱の計り方は、一〆が二間三尺の縄で計り、十八東が一段という。三東づつが六つ十八束ということだ。

                     服部秀子記

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     虫干し

              黒岩ふささん(九十二才)

 去年の六月、実家へ行ったら皆んな畑に出かけ、九十二才の母一人で新聞を読みながら留守番をして居て、子供の頃の話を
してくれました。

 七月一日は、衣脱ぎ休みで虫干しをしたもんだ、げばさんが達者でなかったし、奴さんと一緒に御飯の用意をしたり、兄弟の子守をしたもんだ。毎日田圃へ行って居るお母さんが家に居て、朝、煮蒸かしを作ってくれ、男衆も飯前の草刈りをして、色々家の仕事や用事をして居たな、何しろ今は大村になったが、昔は十二軒位しかないんだから、村の仕事と言ったってそんなにねえやさ、おとっぁんが家中柱に傷をつけない様に細引きやぽろでなった縄を引張ってくれ、小さい窓一つしかない暗い土蔵の二階から狭い梯子段を子供達は、お母さんが箪笥から出してくれた着物を運んでばばさんに干してもらった。ぼろの縄は綿入れの着物を干すと、重くて伸びやすいので薄手の着物を干した。
 子供の時は嬉しかったでな、今は全然虫干しもしないから此の着物も嫁に来る時作ってもらったんだが、今着て丁度いいでな、昔、セルせってなあ、四円五十銭だったんで今ならウールって言うんだでな、ひざに小さい穴が空いたからついで着て居るんだで、七十余年前の地味な着物を腰上げをして、きちんと着て、目は見えるので毎日一枚づつ新聞を広げて読んで、自分の生れた古間のこと等出て来ると、切り抜いて座布団の下に入れて置き、身内の人達が来ると説明しています。

                     黒田直子記     

 

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   お寄講について

 お寄講は諏訪ノ原集落に明治の頃からずっと続いている浄土真宗の人たちのお経を習う会として、親から子へと伝えられて来た。
 最初の記録は、明治一十年一月二十日から始まっている。大正六年当時のお掛金は一戸五銭五厘で講成員は十一名で次の通りである。

    吉川篠吉さん   黒田貞治さん    古田唯治さん   萩原喜左衛門さん    三井賞左衛門さん  三井久馬さん

    古田熊治さん   黒田要助さん    吉川惣松さん   吉川順太夫さん     吉川善作さん

 その間現在に至る迄講員の出入りはあったが、今も十戸で毎年十二月から三月まで十五日に集まってお経の練習をする。
 昔は殆んど男衆が集まったもんだが、戦後は女衆が殆んどになった。お経の一番上手な人が先導して、皆それに続いて読むのである。先ず当番に当った家では前の月の当番の家から「およりこさん」と言う古い箱に入った「領解文」のような内容を書いた巻物を受けとる。皆集まるとお茶を一杯ごちそうになり仏壇に灯を入れる。皆は炬燵から出て座ぶとんに座り、めいめが持って来たお経本をひろげる。先導する人が一行よみあげると皆それに続いて大きな声でお経をあげる。
 一応あみだ経が終ると、領解文やおふみさんを読み上げる。終ってありがとうございましたと挨拶をして終る。そのあと又お茶をいただき解散になるが、近頃はこの時お酒も出たりするようになった。
 長い冬を他にたのしみのなかった昔では、こうして時々集まっては村人たちの情報交換の場となっていたのだろうと思う。又、昭和十二年十一月には一金二十二円を国防献金として、松本聯隊司令部へ寄附し、感謝状も大切に保存されている。
 昭和三十五年よりお掛金一戸五円となっているが、昭和三十七年には一戸二十円となり、それが現在迄ずっと続いている。

        昭和六十三年一月お寄講帳より                 

ささの実会里黒田ユリ子

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   食生活の想い出

 昭和十七年頃だと思います。私は三十才の時でした。食物はなくほんとうにつらい思いをした。私は間もなく三人の子供を持つ母でした。田圃は二反二畝位でした。田畑をたがやしても肥料はちょっぴり配給でした。米もたんと穫れないし、じゃが芋も小さいのしか取れなかった。大変でした。父ちゃんが営林署仕事に行く時は米とイモを半々に入れて、弁当を作った。家に居る者は山に行って食べられる草や木の芽を取って来ては(湯がいて)味噌で味つけて、食べたものです。後の残りは、「オジア」にして食べたものです。其の頃冬になったら少し米を貯えておいたのを、少しでも有ればこくだんすの板を外し、村役場の人と役人さんが麻袋に入れて持って行ったもんです。私は「あまりひどいなー」と言ったら其の人たちはそんなにせつながらなくてもいい、又外米や、いゝトウモロコシの粉も配給してやると言われた。私は其の配給の品を長い列をつくって買いに行き、だんごをしてお腹をふくらませた。
 今は食生活も豊かになり、どこの家でも幸せに暮している事でしょう。

                  つもり会 徳武りめ

 

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  葬式の事

         柴津野村キクイさん(八十五才)

 昔しゃナ………人が死ぬと告げ人が親類や身内に知らせてまわりたよ。
 お通夜は親類と身近な人達で夜中までなー葬式の段取りや準備をしたよ、先ず、米の粉をひいてカラスダンゴをまるめたよ、五個とか七個に他人にまるめてもらったよ、又棺は村の衆に作ってもらってな。 葬式の日は村中の衆がお参りに来てくれてな、れん台を用意してくれる者、墓の穴を掘ってくれる者にわかれて、埋葬が済むまで手伝ってもらったもんだワ、
 隣りの家に座敷をかりてな、村の衆にそこで、おつき(おちつき)のこわめしを食べお茶を飲んで葬式のはじまるまで休んでもらったもんだ。
 おつきのこわめしは近い親類衆が自分の家で黒豆を使ってふかして重箱や御鉢で持ちよってくれたワ、お勝手の手伝いは、近い親類と親分、子分達でどこの家でも五・六人は集ってくれてな、料理の段取りをするもんが、どこの家でも決って、良くやってくれたもんさ。
 隣りの座敷へは「おつき」「大根煮物」「漬物」位持って手伝いの女衆二人位、お茶番に行ってもらったもんだ。
 料理は今のようにさしみなんて使わねえでな、全部精進料理でな、ゴボーの大煮・ニンジンの含め煮・きんぴら精進あげ・ふの吸物、そんなとこかな。全部家で手伝い衆に料理してもらった。
 葬式の方も身内で世話役を決めてその人の指図で座敷の準備から一切を取りしきって進めてもらってなあ。いよいよ葬式の時間になるとナ板を叩いてはじまる知らせをしたものだ。昔は村の寄り合いがある時も板を叩いて時を知らせたものだ。
 喪主は庭先に出て、来てくれた衆に一まわりして挨拶をしたよ、それから葬式が始まるわけ、お経が済んでお墓へ行く前「こし」のまわりを喪主が線香を持って左に三回りして出て行った。土葬の時も火葬場へ行く時も村の達者なもんが数人で「こし」をかついでくれてな、うちの者や親類衆は一緒に歩いて行ったよ、今のような寝棺でなく、縦棺でな、すべ縄使ってれん台へしばりつけてかつぐようにしてな。すべ縄も長さが決っていたようだ。埋葬したらそのすべ縄使ってむじなよけをした。昔しゃ、土葬がほとんどだった。
 お墓の行き帰りには転んではいけないって言ったもんだ、転ぶとそこのもんの身内に不幸があると言い伝えられていたもんだ。
 今じゃだいぶ生活改善で変って来たが、これからまだまだ変って行くんだろうね。
 現在は大組で葬具、祭壇を協同購入し、葬儀委員が管理し、使用しているが、昔は導主のいす・かさ・れん台・棺を飾子布等お寺で保管し、それを使っていたようです。
 何代か昔の葬式だが、葬式を出す家の屋根に鳳凰の飾りをあげ、死者の生前の労をいたみ、死者をしのぶ気持を表わしたものと思います。

                     野村和子記

 

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    ドロオイ虫

          仁之倉佐藤シズイさん(八十才)

 オラ婿取りだからジイちゃんとオジさん(オレのおとっつぁん)の間に入って苦労したでェ、うちの食い物の仕度はおっかぁさんがやっていたから、おっかぁさんはある物を使っていろいろのものを料理してくれたけど、オラそつなしでただ働くだけ、朝はねむたがりのジイちゃん(主人)を起し、飯前に「ドロオイ虫」取りに行き、昼は蚕の桑摘みをし、ウチの仕事を間に合わせちゃ他へ桑摘みに行ったり、田の草に行ったりしたもんだ。一年中で七月が一番つらかったなァ、すきがなかった忙しかったよ。
 六月十八日頃まで田植えで、ウチのが終ると近所中頼まれて行き、六月二十二・三日頃から二十五・六日迄田休みになり、この時にゃみんな田を休んでささ餅をついた。
 五月十五日頃「ヒエ」の苗を床播きにし育てたものを七月四日頃には、畑へ二本づつ足で土をかけちや手でしっかりと押え真直に植えたもんだ。七月十五日時分までドロオイ虫を取ったバケツに灰を入れてトタンのトヨみたいなものゝこの位の巾のもの(四十〜五十センチ)に柄を付けて、今でもどっかにあると思うよ。おっぷりまわし取った虫はバケツに入れ灰にまぶって天井葉に包んで土に中に埋めた。十五日頃になると稲の笹がこわくなると虫はつかなくなるけど、どこのウチでも虫を取った。家中の田を一回りするのに六日位かかり、朝露でじっくりになってやった。つらかったなあ。雨が降れば田の草取りやあぜ草を取り、家にもいられなかった。
 七月七日・八日頃蚕のこぱそだてをし、これから後晩秋蚕の蚕まで順にはきたてていった。ウチじゃ蚕へたくそで三回しかはかなかったけど、ボテしょって立つ時にゴロッところがり首をつるようになったこともある。何度もやり直してやっと立てる。だから今、腰が曲ってこんな身体になってしまったんじゃないかなァ、頼まれて他の家へも行った。でも若い時分だったから面白かったよ。
 オラ子供の頃、鼻とりもよくしたもんだ、あらくれの時、はだしでくれの上をチョンチョン、チョンチョン飛んで歩いてなつべたくて長く水の中に入れておかんなかった。たんしの殼で切った時は、痛いしつべたいし、ウチのもんに油をあっちく熱したものをたらしてもらうと、とってもいたくて、だけど不思議とすぐ直ってしまってありがたかったなあ。
 当時は半じばんにモモヒキで紺か浅黄で農良仕度をした。「はだしたび」松本たびといって底だけ厚めの底でこうは綿で出来た物で(十五才頃)娘時分にはゴム底が出て来るようになった。勇さんの嫁さんが赤渋から来た、その人に「ダブ」を縫うことを教わりみんなダプをはくようになった。縞かカスリで作った。今でもオレ達ははいているよ。畑仕事は半じばんにモモヒキとてっこうではばきをはいてハダシタビをつけた。
 田植えの時は、半じばんにモモヒキで苗取りの時にや「半モモヒキ」(半分のモモヒキ)をまくって濡れない様にして取った。笠にゴザを着て、男しょは蓑を着る。毎日毎日雨降りの時は、ゴザは濡れこそすれ乾くことはなし、カピが生え前は何も着けないので身体中ジックリで切なかった。
 夏は「こうかけ」をつけ(たびを底だけ切ってしまい、ハゼの替りにヒモをつけて甲だけにし)八月の暑い中、ンバのサクをツウツウ、ツウツウときったもんだ。三十七・八才頃までこうかけは着けたよ。ンバは支那袋に七つ、八つも穫った。オラチは畑もいっぱいあったから「ヒエ」や「アワ」や「キビ」も作ったなァ。お盆にや老若男女お宮の庭が何重にもなって踊った。あの時分は踊りばっかり踊りたかった。みさ山・地蔵盆にも踊った。今はテレビがあるけど昔は踊って楽しかった。甚句とおけさの二つであとはなかった。

                     服部秀子記

 

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   食べ物の思い出

          諏訪の原黒田武雄さん(八十才)

  魚といえば塩びきやにしんだった。家の年寄ばばさんが近所にお産があると頼まれて、とりあげ婆さんに行ったものだ。年をしていたのでよくおばって行ったりもした。
 さゝれが仏だんの下に入っていた(さゝれとは米の粉と砂糖で出来ていた様だ)ばぱさんがお産の手伝いに行ってよくもらって来た。
 むじな豆腐もうまかったという。(大豆をほとばして生ですったものを味噌汁等に入れて食べるとの事)(手間島かゝらず栄養的にもよい様に思う)
 此の頃言わなくなったが、おじいさんはよく「かけ菜」「かけ菜」と言った。野沢菜や大根菜を干して居いて冬になってそれ
をゆでてかす煮等にした様だ、確かにおいしいかも知れない。かけ菜と言われて干しては置くのだが忘れていて、食べる頃には黄色くなり過ぎてしまったりして、此頃は私もつくらなくなってしまった。
 とり肉も昔の鶏肉はうまかったとおじいさんはいう。「昔は割合に色んな物がなかったからうまかったんじゃないですか」と私も言ったが、考えて見ると確かに昔の方がうまかった事と思う。とりは放しがいだったし、今は大量生産やそく成栽培で何でもこくが無くなって来ている。昔の人の方がうまいものを食べていたのかも知れない。

                     黒田久美子記

 

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  ふだんの食事

              諏訪ノ原老人会より

 晩は大体ンバだった。野良からあがってきて女衆がン.ハをうちはじめるんだからおそくなって、子供はまちくたびれてたべないで寝たこともいつもあった。
 遠くの山や畑仕事はめんぱにごはんをいっぱいつめてもっていくけど、おかずはみそ漬や梅づけがせいぜいだった。
 山でうまいもんはオケラとトトキと言ってナズナやあかざなどともよくおしたしにしてたべた。塩が匆体なかったので、わらびなどの山菜はその時期にたべたきり、塩漬にはしなかった。
 いつもいろりの火棚の上に干した魚がのっかっていた。子供の頃はそれが喰いたくて、とびあがってとろうとしておこられたもんだ。
 干した棒だらや干しかずのこはほとぱして味を丁度にしてしまっておいて、お客さんがきたら出した。

  よくたべたもの

   ・塩からいわしのおやき
   ・ つくだ煮はたるで買っておいた
   ・ こじきの天ぷら   野菜を煮てメリケン粉を溶いてかける。
   ・ かけ菜のかす汁      (野沢菜の小さいものをつるして干しておき、それを茄でてかす汁にする)
 油は一年中で三升くらいたべたかナ
 ふだんはいつもかてぇ飯だった。その時期、時期にあるもので大豆・大根・じゃがいも・かぼちや・さつまいも・栗・きびが多かった。白いまんまがくいたかったが、子供やだんなに出来るだけ白いところを茶わんにもってやった。みそ汁はじゃがいものせんぎりに小麦粉をまぶしたものを入れてかさをふやした。

     先祖の法事

 春になるとあちこちの家で順番に法事をした。ごちそうは手打そばを前の日に沢山うっておいた。その日は火だきばあさんがかまどの火をたいて茄でるのにいそがしかった。

  お皿にはあえもの(かんびょう、玉菜、コンニャク)
  お平には油あげの煮たもの
  五ツ盛 角フ・コンニャク・人参・大根・ゴボウだった。
  引物には料理菓子がついた。中にあんは入っていなかった。

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    法 事

            柏原中村かつさん(七十三才)

 「来年はお爺さんの十三年だから奈良漬でもいっぱい漬けておかず。」と秋から法事の用意をしたもんだ。法事には料理菓子が流行していてね、蓮の花・竹の子・キノコ・梅の花・葡萄などいろいろあってね、柏原では叶屋、カド万が料理菓子を作って沢山売ったもんです。その料理菓子を輪島塗りの二十膳一組になっている膳に娠るわけで、足りない時は隣り近所から借りたもんです。料理菓子を使わない家もあったよ。御手伝いは、親類でそれぞれ少しづつ野菜を持ち寄って集まったんです。
 お客に呼ぶ人は、子供、兄弟、叔父、叔母、従兄弟など死んだ人と近しくしてた人達で、お寺さん二〜三名を加へて二十二〜二十五人位が普通だったね。
 お客に呼ばれた人達はお金・ローンクー線香・米(一〜二升)など木綿の風呂敷に包んで持って来るんだ。米は小さな端布を縫い合せて作った米袋(現代パッチワーク版)に入れて持って来たね。それを呼ばれた家に入った時出すと、おつき(おちつき)といって外側が黒、内側が赤の漆塗りのお皿に赤飯を盛り奈良漬とお茶をいただくんですわ。食べ終って皆んなが集まったら法要が始まり、宗派によって時間はまちまちだけど終り次第本膳と二の膳が出るよ。

① 料理菓子を使わない膳(昭和七年)

  本膳
   皿  コンニャク白和え
   汁  豆腐・青菜の味噌
   坪  ざくもり、煮豆
   猪口 パイナッブル、煮豆
   おひら 三盛、油あげ
   小皿 たま菜
  二の膳
   茶    半斤
  砂糖
   まんじゅう 箱入
  吸物   ふ
  酒

②料理菓子を使った膳(昭和ひと桁時代)

  本膳
   皿  蓮の花一ケ
   おひら 竹の子・梅の花・キノコ
   三盛  キノコ・ぶどう
   汁  味噌汁
   親椀  御飯又はそば
   小皿  かんぴょう・きんぴら・白和え・ホーレン草
       したし豆・酢の物・煮物
  二の膳
   油あげ   一ケ(菓子)
   猪口    夏菓子小七ケ位
   おまんじゅう
   酒
 引物
   お茶・砂糖

 本膳には小皿が五〜七枚用意されて、大なき皿が廻り皿としてしたし豆・きんぴら・乾瓢と凍豆腐の煮つけ・酢の物・ホーレン草のおしたし・白和え・煮物など入って廻って来るので小皿へ移してそれを食べたんだよ。本膳と二の膳のものは汁もの以外手をつけずに、家へ土産として持り帰る習慣だったね。新聞紙に包んでめいめい持って来た木綿の風呂敷に入れて帰ったもんですね。
 酒を飲んだり色々食べたあと夕方には、おときに入るんだけど御飯と味噌汁を出す家と、そばを打って食べる家があってね、そぱを打って出す家は始め冷たいそば、そのあと好みにょっておにかけとして食べたよ。おにかけはね、いろいろな野菜をぶちこんだ汁を湯通ししたそぱにかけて食べるものだよ。食べたあとそれぞれに土産を持って帰るんだ。
 お前さん、昔は今みたいに色々な食べ物なんか無いから、皆んな家で作った野菜、手造り豆腐や油あげなど使って、魚気はぜんぜん使わず質素なもんでしたょ。                     

                                      草の芽会 山田千里子・仁科佐保子・小林浩子記


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   味噌作りについて

 味噌は、どこの家でも自家製であり、味噌部屋として物置の方へ作られていて、一年から四年味噌位まで桶が並んでいた。家で作った豆を冬のうちに虫くい等ひろって用意しておく。三月のお彼岸頃から四月の始めにかけて共同の大釜を順番に使って、大家族は二釜四斗以上も煮た。前の日に豆を洗い、よくほとばす。味噌煮の日は、朝早くから土間に据えつけた大かまどに薪がくべられ、午前に一釜、十時頃には豆を上げて次の釜を仕掛ける。柔らかに煮えた豆は先に納豆にねせたり、子供はおやつがわりに食べた。又保存のおやつとして針で糸に通して乾燥したりした。
 よくむらした豆を大半切に移し、隣近所結をして味噌つぶしをした。その棒は、杉の細目の木を山から切って来て、皮をむき作ったもの、長さ六尺位で持つ方は細く下の方は直経七センチ位で家族と近所の人六人位でとんとん搗いたり、棒を組んで半切を廻った。よくつぶれると大きな味噌玉、直経十センチ位の長さ、二十センチ位の円筒型状に作った。よく洗った張板の上に並べた。豆の煮えあんばいで近所の人とのお茶会もなごやかだった。ささげ豆の煮たのや芋ののっ平と言うのが主な御馳走だった。
 四〜五日立って、まわりが乾くと上の張りから縄を吊し一通りの味噌玉を吊すのに縄四本で下で結わえ、玉をのせて藁で縄をまとめ、その上へ玉をのせて繰り返す。 一ケ月位放置して、その間に糀も家で作り用意する。農作合間の味噌仕込は大仕事である。赤カビ、青カビの出た玉を下し大きな桶に入れて洗いカビをそぎ取り、水を切って、アンペラを引いてその上で味噌切りと仕込をする。主に夜なべにした。仕込に間に合う様に糀米を御飯にたいて、甘酒にして入れたりした。塩は豆一升に三合の割合にした。
 味噌玉の切ったのと甘酒・塩をよく合せ玉にして力のある人がはたきつける様に桶の中へつめこんだ。

                  ときわ会和田ヨシ子

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    出産について

 妊娠した事がわかった時点で、生家から嫁ぎ先と親分さん宅へその旨をよろしくと挨拶に行った。
 五ケ月に入ると家からいわた帯として晒一反をお祝にいただき、犬の日にしめるとお産が軽くすむと伝えられた。
 初児の出産は予定日が近づくと実家へ戻り気づかいなくお産の準備をした。昭和の始め頃は資格のある助産婦さんは殆んどなく、近所でよくお産を手がける人(取り上げばあさん)をたのんだとの事、そしてお産は不浄とされ、神棚には白い紙が貼られた。産床は明治の頃はうす暗い子産屋に藁を敷き、その上ヘボロのつぎ合せ布(敷寝)を敷いた程度、明治時代に生まれている人は、冬期間の藁仕事で出た「すべ」を使って、すべ布団を作り、一般の人も使用していた位だからお産するにも下が汚れてもいいようにすべ布団を敷いた。保温性に富んだ生活の智恵でもあった。むろん古布等も大事にして、その時のために用意した。産婆さんが開業する村になると、ゴムの敷物など使う様になった。お産は上半身をおこし、つかまる所があればそこにつかまったり、後から取り上げばあさんに腰を押してもらって力んだそうだ。正常ならば自然分娩で母子健在となるが、万一の時には素人の取り上げで母親の死亡率、子の死亡率も高かった。
 食べ物は産婦に消化のよいものとして用意されたのが米の粉これはそれぞれの家で用意し、産見舞としてお祝品と一諸に贈り合った。米の粉に熱湯をそそぎ、手早く固めに箸でかき廻してまとめた所へ、更にお湯を入れて少し煮る。その煮汁をあけてまな箸などで力強くかきまわすと、すべらかで美味しい「ぼた」の出来上り。これは産婦にあやかって、家族から産見舞に来てくれた人に御馳走分として食べてもらった。産婦は「ぼた」を食べるとよく乳が出ると言われた。味噌漬、かつをぶし等をのせて食べた。三度の食事も平常の食生活が質素なので、鮭の缶詰でもあれば良い方で、酢っぱいものはいけないとか、果物も木になったものはいけないなど、食べ物と乳の出方になにか関係がある様に聞いた。だが、乳の出が悪かったり足りなそうだったりすると、鯉を食べるとよいとも聞いている。
 お産をして三日だつと三日湯と言って、タライに干薬湯を作り、腰から下を温めるようにして洗ってもらう。
 初児は実家での出産で、或る程度親に甘える事も出来ただろうか、二番目からは三日湯を使うと、ぼつぼつ出来る事はするようにした。七日間位は取り上げばあさん又は、産婆さんが、「にがっ子」(新生児)のお湯あぶせに来てくれた。そして七夜のお祝をするが、実家の場合嫁ぎ先の親、仲人さん、親分さん、取り上げてくれた人を呼び、子供の膳も作ってお祝をした。嫁ぎ先からは迎え衣裳一重ね、その他親戚から、布半反位づつお祝としてもらった。お日明けは男児二十一日、女児二十日と言われ、それを過ぎると平常の仕事をしてもよいとされた。お祝いをいたゞい方へお返しに赤飯をふかし、重箱へ入れて配った。親元(実家)ではお祝にいただいた布で、ふだんに着る着物を一ぱい作ったり、羽二重等で上等の着物、又、掛衣裳も中
流以上は作った。その他ねんねこ、夏冬物と普だん着、かめの子、背負いさんじゃく、子供の布団等、子供孫の可愛いさからなる親の愛情は、今も伝えられている。一ケ月からニケ月近く経ってよい日を選び、嫁ぎ先から迎えに、そして実家の親に送られて婚家へ帰る。そこで又お祝の客立をしたり内祝に赤飯を配った。         

                                    ときわ会 和田ヨシ子

  コメント

 実家で子供の支度をすっかり用意するという事は、此れから改めていかなければならないしきたりの一つだと思う。現在は大部改められて来てはいるが、此れからの農家の課題の一つでもある。
                     編集委員会     

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    延命地蔵について

          諏訪ノ原牧野なみさん(八十才)

 昔諏訪ノ原で発見された地蔵様について話をしてみようか。 私が嫁に来た時、私の家に身の丈四十センチ位で黒い木仏が置いてあったんだよ、延命地蔵菩薩と言われていたの。
 今諏訪ノ原から古間駅へ行く道の両側に、耕地名が「字地蔵」と言うところがあるでしょう。昔そのあたりが原野だった頃、開懇の際に出現した木造仏と言い伝えられたものでさあ、それが現在私の家の裏山にその頃寺を建てて安置され、代々の尼さんが住職として守り続けられていたのに、万延元年に火災にあって寺は焼失したけど、本尊の仏様だけは延命地蔵様のせいか胴体の一部だけ焼傷を負わされただけで助かり、それを当時牧野家であづかり、其の侭の状態が昭和初年頃迄続いていたんだよ。昭和四年若槻村の中の竜の住職で大変人望の高かった尼さんと知り合った当時の隠居牧野由太郎が、事情を話し地蔵様の守護をその寺にまかす事にし、その後は仏具を寄附する等していたんだよ。
 私がその後を知りたくて、つてをたよって聞いてみたところ尼さんが亡くなってから寺は廃寺となって、地蔵様は他人に買取られたと聞いているよ。本当に残念でしょうがないよ、そしてこの頃になって想い出したのだけど、その地蔵様におまいりする時は「オンカカ カミサン マインヮカ」と言い乍らおまいりをするんだよ。印度の言葉なのかね。

                     黒田ユリ子記

 

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    こき箸あげ

           諏訪ノ原里一田哲郎さん(六十才)

 「おじいちゃん、こき箸あげってなんだい。」と聞く。「昔はなあ、今のようにコンバインなんて便利な機械.かなかったから秋になると鎌で稲を一株一株刈ったのさ。そして稲こきは二本の捧の間へ稲をはさんでこうやって稲を引っ張るとこけるだろう。」と小昼のおかずに使う箸をふろ敷包みから取り出して、稲をこくまねをして見せた。「昔はこうやって唾をこいたのさ。刈った稲を田圃ヘー週間も干しておくと乾くから、それを馬の背中へ乗せて家へ運び毎晩おそくまでこいたのさ。それで稲こきが終わるとこの箸が来年いらなくなるので、こき箸あげといって、大根や里芋を味噌でよく煮込んだものをおかずに男衆は一杯やり、夕方は早出来の残りを精米した新米に掘りたての長芋でトロロ汁を作ってお祝いをしたんだよ。おじいちゃんの若い頃はもう足踏み脱穀機を使って田圃で稲こきをしたが、それでも一日みっしりこいて十俵位しかこけなかった。十日同位は毎日毎日稲こきをしたもんだよ。」
 考えて見れば、この半世紀は農業機械の革命の歴史のようなだ。脱穀だけを取りあげて見ても、こき箸一千歯一足踏み脱穀機—動力脱穀機一自動脱穀機、そして最近は刈取り脱穀が同時にできるコンバインと目まぐるしく変ってきた。
 昔はなあ、種籾(すじ)揺きが終われぱすじ播き休み、代かきが済めば馬鍬洗い、田植えが終われば笹餅ついて田休み。そして稲刈りが終われば鎌上げといって新小豆でぼた餅を作り、新ネギの味噌汁でお祝いをし、それからこき箸あげ、かゝしあげが終るともうじき雪になる。農業はどの仕事も大変なので家中で力を合せて稼いで仕事の切れ目切れ目にはご馳走を作って家中でゆっくりお祝いをしたのさ。

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    昔の想い出

           御料 大草ふきさん(七十九才)
              大草つるいさん(七十八才)
              小林しずさん(七十六才)
              三沢ちとせさん(七十五才)
              阿部チョエさん(七十五才)

 御料の五人の皆さんに集まって頂き、大正末期から昭和初期の行事食を中心としていろいろ思い出話を話合って頂きました。お祭・案山子上げ等の行事食は行事食の覧にまとめましたので省かせて頂きます。

     運動会

A あの頃運動会は十月五日ときまっていたっけ、富士里尋常高等小学校だったよね。
B お祭と並んで村の大きな年中行事の一つだったと思う。
E 子供が学校に出ていない家の人もみんな村中の人が見に行ったよなあ。
C 春嫁入りした初嫁さんちゃは無地の色物の立派な羽織(紋付きの羽織の次にいい羽織)かなんか着て、姑さんと並んで座って見ていたっけね。
 (昭和二十年三十年代)
D 嫁さんにしてみれば知らない子供ばかりの運動会なんて少しも面白くなかったと思うよ。
B みんな運動会を見に行ってしまって家の方が不用心になるので、消防のしょが警戒に廻ってくれて、それが今でも続いているんだな。町民運動会と小学校の運動会には消防のしょが警戒に出ているもんね。
A お昼は焼きむすびだったよ、いろりの火の上にわたしを置いて焼いたっけ、暑い日でも悪くならなくてよかったなー。海苔むすびなんて本当に珍らしい位だった。
D 学校では年寄を招待してくれて、お昼にまぜ御飯を出して帰りには紅白の大福餅をお土産に貰ったな、手伝いは青年会の女しょだったかなあ。
E この運動会が終ると本格的な稲刈りが始ったもんだよね。

    おとりこし(お年越し)と法事

 おとりこしは年に一回菩提寺のお寺さんがお上人さんの掛軸を待って各壇家を廻ってお経を上げる。集落内の壇家を一廻りすれば二日位はかゝる。

C 十二月に入るとおとりこしだね。お寺によっては四月の所もあるしね。必ず餅搗きしておかざりを作り、仏さんやお上人さんに供えたもんだ。
A おらちは昔からお寺さんの宿をしていて今もそうだけど・・
    料理は 吸物 葱、トーフ
        おかず 塩ます、サ.べにしんの昆布巻
        主食 手打そば、雑煮
    そんなもんだったな。
E 搗きたての小豆餅を近所や親戚に一重箱づつ配って歩くのが子供の仕事だったっけ、おかざりにして配る家もあったね。
B 今はあまりやらなくなったけど先祖の法事は、春になるとどこの家でもやったね。だから四月おとりこしをやるお寺さんは、あっちこっちで法事.かあるから、四、五日も泊って居られたそうだょ。
D 法事にはよく手打そぱをやったっけ、前の日に作って間に合せておき、その日はゆでて出すだけにしておいても、忙しかったな、年寄は火いたきばあさんと名がついていて、目をこすりこすり火を焚いたもんだ。

  コメント

 この方々のお話の中で、三升の油で一年間暮せたと言われた事と、年令の割に若く、健康そうな皆さんが本当に印象的だった。

             原山ミヨイ記

 

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   昔の想い出(かいば切り)

                諏訪ノ原黒田武雄さん(八十才)

 おじいちゃんの家は榖屋だったが、やはり家では馬を飼っていたようだった。おじいちゃんも夏は毎朝草刈りに行ったという。一束ずつ刈って来て馬にくれたという。冬は藁を押がまで切る、(それをかいば切りというのだが)そこへ米ぬかや豆から野菜を加え、米のとぎ汁を加えてまぶってくれるのである。おじいちゃんの話を聞き乍ら、私も小さい頃実家の父もそうやって朝になるとおけの上に押がまをのせ、せっせと藁を切り牛のかいばを作っていたのを想い出した。又、それと同時に昔の幼い頃の事がいろいろと懐しく想い出された。

     鼻っとり

 田をかくのに、今は皆耕運機だが、昔は牛や馬を使った。田を起してから次に水を入れてかく、その時に「鼻っとり」と言って、女衆や子供達が牛の鼻づらを持ったものだ。牛の鼻に金具を通し、それに竹竿をゆわえてその竹竿を持って、田かきの先導をするのである。田じゅうを一諸に歩くので終った時は全身泥だらけになったものだ。私も古間へ嫁に来て、一、二年は鼻っとりをしたのを想い出した。じきに耕運機がはやって来た。

                     黒田久美子記

 

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    ふだんの食事

          落合小林マツイさん(八十三才)

 オラチは百姓の外に車屋といってお爺さんの代から水車で精米所をやり、又米の商売も一緒にやっていたんだ。おらの若い頃の食物は今のようなぜいたくな物でなく、家で穫れた野菜や豆類をやりくりして、買った物なんか殆んどなかったな、コーチンを三羽位飼って、その卵を食べたり、又魚は一週間に一回位売りに来る魚屋から買ったり、おじさんが商売に行った帰りに、古間の町から買って来たな、近所のしょがたまに古間の方から魚のツトッコを下げて通ると「○○さの家では今日はお客でもあるそうで、魚買いに行って来らったみたいだ」と話したもんだ。豆腐屋は一ケ月に二回位しか売りに来なかったな、肉は殆んど食べなかった、たまに、にわとりでもりょって食べる位だったよ。
 何しろ砂糖はお盆や正月、五月八日といったような時しか買わなかったからな、油も近所のしょは四合びんを下げて買いに行ったもんだ、オラチは水車で使うから一斗かんで買ってあってそこから出して使っていたけど、味噌は毎年二釜づつ煮ていたよ、(一釜二斗五升の豆が煮える)そばや粟も作って、手打そばやそばがきをしたり、粟の御飯や栗餅粉餅(しいな粉)もよく搗いて食べたな。
 三月の末から四月にかけて、あられ餅を搗いたり味噌煮をしたりして、春はあられのこびりばっかだったよ、秋のこぴりはさつま芋のふかしたのや、せんべ焼きが多かったな、さつま芋はあの頃家で作らなくて売りに来たのを一俵買ったもんだ。いり豆もよく食べたよ、秋は精米所なもんで人も来るし、毎日ほうろくで炒ったもんだ。

                       

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    米について

 おらの若い頃は米と味噌は、本当に大事だったもんだ、一年凶作になると次の年は食べる米がなくなってしまうので、なるったけ古米を次の年へ繰越して食べ、六、七月頃から新米を食べるようにしたよ、ある人なんか次の年新米が穫れるまで古米を食べていたっけ。かて飯といって栗飯、麦飯、大根飯、菜飯を冬の間はよく食べたもんだ、夏は御飯が悪くなるからあまりやらなかった。キビ餅、粉餅(しいな粉)もよく搗いたよ、凶作の年なんかしいな米ぱかりなので粉にひいて冬中しいな粉の餅ばかり食べていた事もあったけ。昔は古米をたくさん持っている程は、オダイジンだといったもんだ。お味噌もそうだった、三年味噌、四年味噌といって古い味噌程いいとし貯えもそれだけあった訳で、オダイジンなんだよ。
 昔は小作のしょは困ってたもんも大勢いたっけ、何しろ年貢米を納めなきゃならないからな、一等地から四等地位まであってその地主と話合いでこゝは何俵取りだから何俵と籾で納めたもんだ、おらも二十八俵取りの一等地を借りて作った事もあったけど、二十八何俵りで十三俵納めたもんだよ。三等地位の二十五何俵りを人に借した事もあったけど、十俵納める話になっていたのに秋になったら八俵にまけてくれと言われ、次の年になったら五俵にしてくれといわれた事もあったな、そんなんだら無理しても家で作った方がいゝからと、次の年から家で作ったっけ。
 小作のしょは稲を出かして多く穫れぱ、自分の所に残る分も多くなる訳だけど、それが中々出かせえねかったもんだ、秋まで食いつなぎ出来ね位だから、肥料も少ししか買わず、少しやっておくからお花稲でたんと穫れなくて、年貢米を納めれば少ししか残らないんだ、そして又、金に困ったりした時は、米と品物を交換する事もあったんだよ。だから八月頃になるともう食べる米がなくなってしまい、おらちは商いをやっていたから一升借してくれ、二升売ってくれとよく来たもんだ、早生ごなしといって稲の実のいるのを待って、九月の末頃こなして食べたもんもいたな。毎年そんな繰返しをしている家もあったよ。
      田七俵取りが一反歩
      畑一町づきが五畝
  コメント

 昔は小作人と地主では貧富の差が大部あったと思う、終戦後の農地改革によりすっかり変った農村も今又大型農業化という様な事で大きく変ろうとしている。

                    小林三枝子記

 

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   稲にまつわるもの

          柏原 諏訪戸キミさん(八十二才)

 大きな農家は冬二月末頃から三月にかけて馬橇で肥しを引かせ、それぞれの田んぼに使用する量だけ運んでおくが一般は、「だいぶ雪解けたから苗間に行って苗間の心配でもし始めなくちゃなんねいなあ、肥しねせもしなくちゃ……」と言って来年の米作りの下準備である。
 四月になるとすじまきといって籾を芽出しして苗間に播く作業をする。
 身支度は半襦絆を着て、紺の半股ひきをはいてはばき(紺の木綿で三角に作ったもの)をはいて藁草履をはき田まで行った。作業は跣である。昼食で家へ上る時は足を洗ってはばきを取って外に干した。
 仕事は家族だけでする家と、結(えい)でする家とがあり、特別な御馳走はしなかった。(煮物、煮豆など)
 すじまき遊び(休み)といって昔は五月六日(現在は五月八日)草餅を作って食べた。
 五月には田起しが始まり、私の家では三本鍬で二反五畝を五日か六日かゝって起こしたが、少し過ぎてから牛のからすぎで田起こしをするようになったが、軟らかい土の所はからすきが入らないので使用出来なかった。こびりにはおにぎり、味噌漬漬物であった。
 田かきは一、二回位して塩ぼた餅、おにぎり(ゴマ、キナこ味噌漬、漬物など食べた。
 あぜ寄せ、あぜぬり、小あぜ切り、あぜ豆植(大豆二粒づつ一尺間隔に播く小豆のところもあった)と作業があり、こびりはおにぎり、あられ、漬物などであった。
 いよいよ五月末頃から田植である。朝四時起床、子供に乳を飲ませたり、田植のこびりの用意をした。
 煮物(たけのこ、干にしん、しみ大根、人参、コンニヤク、ちくわ、昆布など)煮豆、天ぷら、おにぎり(ゴマ、キナコともに自家製)をきりこみに入れて唐草模様の木綿の風呂敷で背負って田んぼまで運んだ。作業は結で、朝五時に田に入り九時にひと休みでこびりを食べて昼まで働き、子供がいるので昼食をとりに家へ行き子供に乳をくれたりして、三十分ほど昼寝をして一時半から二時頃また田に入り午後のこびりは、あられ餅が一般的であった。
 あられは春に五臼位搗いて一臼を半分ずつにしてのして作っておいたものである。だから春早く家中あられ干しでいっぱいになり足の踏み場も無いようになった。
 田植作業は手もとがわからなくなるほど暗くまで働き結なので手拭一本の礼もなく働いたものである。

田植が終ると馬鍬洗いのお祝をした。お手伝いの人、田植に関係した人を呼んで男は酒を飲み、女は寄り合っていろいろな煮物などして食べた。
 六月十五日前後には田休みがあり五日間位あったが、五日間休む人はいなかったが笹餅だけは百姓であればどんな家でも作ったものである。だいたい四升搗き三臼ぐらい作って近所に配ったり笹餅を十ケ位縛って部屋に吊るしておいた。

 ″昔ねえ、一つ話であったんだけどね一″

 隣の家で笹餅搗いたって、子供は又その笹餅搗くと喜んでその餅をぶら下げて外飛んで歩いて「一おらちで餅揚いた、おらちで餅拠いた」ってせって喜んでみせびらかして食べたって。
 百姓しない家の子がね、家いってせったんだって、「母ちゃんおらちじゃどうして笹餅搗かねえんだえ」てせったって、そしたら「おらちは百姓してねえから米もねえし、笹餅搗かねえだ」とせったって、「お父っあん米の一升も買って来てくんればわんだれに搗いてくれるけんども、お父っあんお米買って来てくんねえし搗いてくれる事も出来ねえなあ」とせったって、「おらあ恨めしなあ、おらああの笹餅一つほしいなあ……」とせったって。
 その母ちゃん、その子のせったのがどの位切なかったやら、頭にのぼっちゃって顔が一寸変になったって、そだから家で百姓してたら子供ある家にまあ十ケか十五ケもくれればいいんさねえ。
 おっかさん変になった時ね、家で泣いて「あの家憎らしいなあ、笹餅一つほしいなあと言ったって…………」
 田の草取りは家族だけでする家と結でする家とがある。稲の株に泥水が入って大きくなると言われ丁寧な家は三回位した。最後は八月七、八日位までにする。(酸素を入れるため)こびりはおやき、あられ、にらせんべいなど。

 ほび取りはてんでの家で作業した。(一、二回)

 稲刈りは長股ひきをはいて地下足袋をはいて作業をした。こびりは煮物(キノコ・大根・人参・ちくわ・昆布・さと芋・ごぼう・コンニャクなど)焼むすび、さつまいも、じゃがいもの蒸したものかぼちやなど。

 鎌あげ ぼた餅(イクサーキナコー小豆あん)いも汁

 稲こき てんでに何日もかけて作業をした。足踏の稲こきが昭和に入ってすぐ出廻ったので人を頼まなくとも出来るようになった。戸隠のほうから、さんちょ股ひきが流行し出してはくようになった。(モンペを細くしたようなもの)

 こきばしあげ ぼた餅、赤飯をして食べた。

 案山子あげ ぼた餅(塩小豆、キナコ、イクサ、ゴマなど)

 この日いも汁を食べると案山子が滑って案山子あげに上がれないと言われ食べてはいけないという。

 北信濃はこれより冬支度がはじまるのである。

                        

                   草の芽会 山田千里子 仁科佐保子記 小林浩子

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   わら仕事の思い出 

          落合 中田善治さん(八十八才)

 わら細工品は昔から日常生活に、農作業に欠くことのでぎない必需品であって、軽くて、足も暖く雪の中ではかかせないものである、(ぬれるという欠点もある)冬の間の仕事として、草履・草靴・くつ・縄・俵編み・簇織り(すくら)等種類も多く、作りかたを覚えるのも大変だった。私は学校を卒業すると藁仕事の手ほどきとして、先づ藁打ち(はたく)から始まる。
 台所にじょうべ石場という平な石を据えてあり藁をやわらかく打つ場所で、朝起きると飯前仕事で寒中でも汗をかき一枚ぬいではたいた、作りかたは父より教わり、又、も寄りに四、五人集って仕事を行う、私は隣の内の馬屋の二階作業場で先輩に教えていただいて草履・草靴・馬くつ作り・雪ぐつ・こんご等又雪ぐつに「つつ」を編みつけた。雪踏用は「かんじき」がはづれないで便利であった。又、奉公人といって、大作のお宅に住み込みで働いて居り、一日の仕事量は草履十五足・草靴十足・馬靴十五足と決められており、なかなか厳しいものだった。私等は実子で気楽に仕事を教えてもらい、昼休みには将棋・花札を始めると熱中して日の暮れるのも忘れて遊び、しかたなく草履二足ぐらい持ち帰り、そっと台所の隅みにおくというおおちやくも時たまあった。
 他には、うそ掛け作り、冬仕事を行うには便利な履もので、通学にも履いて行った。又、雨具用「ミノ」作り、米俵編み、「バセ」踏等、節分過ぎると「ねこ」、農作物を干したり敷物用に使う、ねこ編織りは指先が傷み血が出ることもあった。筵織りも何枚も織る、雑用のすべ縄は夕食後夜業(よなべという)を囲炉裏の廻りで縄ないもする、太い背負縄・細織・荷物背負うに便う背中あて等も作る、養蚕用の簇(すくら)も沢山折り片倉式製簇機を導入して四人ぐらいで共同でよもやま話を交えて楽しく進めた。能率は上々だった。
 堆肥の運搬用に細縄で袋を作り「カルコ」、細かな堆肥は筵で袋を作り馬で田圃へ運ぶのに使用したのである、荷ひもっこ、かつぎもっこと肥料や土を運ぶものも作る。このょうに多くの藁工品は日常生活に農作業に便利に使用してきたが、現今は科学の進歩で軽装製品(ゴム、ビニール)が多く出廻り、藁工品は文化遺産となり貴重品から遠ざかってしまった。
 神聖な〆飾り作りも一つの大事な仕事であるが、私は不気ようで作れなく人様に作っていただいた。
 この外、ミノ帽子、ミゴ袋(道具入れ山仕事)ミゴはばき、藁はばき等も手作り使用する。

俵(「明治13年調べ管内・長崎県・佐賀県農具図」所収)「信濃毎日新聞より」

  終りに昔話しのような今物語りを

 昭和六十一年五月二十日、富山県高岡市西中学校の生徒四百人が修学旅行に信濃町へ参られ、野尻湖博物館、一茶記念館他見学の後、黒姫保養センターに宿泊され、時期的に雨天を気遣い保養センターでサービスとして、生徒に草履作りを楽しんでもらえばと先生と打合せられ、木田こうさんと野尻の丸山さんと私、三人指導に来てくれと頼まれて行き、あいにく雨降りで、先づ三班に分かれ、藁はたきから始まり、この仕事は皆力があり、よくやおらかにでき、次に縄ないになると初めての者ばかりで、手をとって教えてもうまくよれなく、草履作りはなおさら進まず、半日なんとか編めた者は十人ぐらいで「半ばら(片ほう)」あった、昼頃に雨も晴れ生徒は苗名滝へ行くことで、おじさん、おばさんありがとうの声に楽しかったひとこまであった。

 以上まとまらないが思い出の一端といたします。

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おくらぶち もくじ
『結』えいについて
戸隠講
ヒイネ休み
黒姫伝説
もらいぶろ
稲こき
お吸い物
お参りのこと
蕎麦はたき

大正頃の結婚式のごちそうについて
衣について
父母の思い出
機織り
はた織り
地蔵講について
ごぜさんのこと
蒲原獅子のこと(越後獅子)
ボヤ取り
虫干し
お寄講について
食生活の思い出
葬式の事
ドロオイ虫
食べ物の思い出
ふだんの食事
法事
味噌作りについて
出産について
延命地蔵について
こき箸あげ
昔の思い出
昔の思い出(かいば切り)
ふだんの食事
米について
稲にまつわるもの
わら仕事の思い出