凍そば騒動と商品化に思う

                          長野農業改良普及所 丸山  勝

 

 私は、昭和六〇年四月一日信濃町担当普及員として就任しました。たまたま信州大学教授氏原先生より信州大そばの試作依頼があり、大平の小林一二氏に栽培していただいた。一〇アール当り一九〇キログラムの多収穫をあげることができた。その信州大そばの試食会を一二月一七日総合会館で開催した、その会場で凍そばが話題となった、早速凍そばについての文献をさがした幸い長野郷土史研究会の機関誌「長野」岩波書店広辞苑に「氷蕎麦」寒気にさらして凍らせた後、乾した蕎麦とかかれている。郷土史研究会報には氷そばの古文書が佐久市で発見され紹介されている。この古文書は明治二〇年ごろ東京のある高貴な人から長野の人に問い合わせたものであるが、実はこの製造所は、一茶のふるさと柏原なのであった。かつら屋という穀屋で、近隣のそばを買い集め、粉にして販売するばかりでなく、冬の寒気を利用した製品まで考え出し、当時の村おこしで商品化したのである。「信濃では月と仏とおらが蕎麦」この句は中村家では六郎氏が作りたものだと言い伝えている。当時氷そばの宣伝の意味もあってこの句を作ったのだという。
 このように凍そばのルーツが判明したので、数回かつら屋中村恵志子さん(七八才)宅を訪れた。恵志子さんの話では、明治時代から戦前まで石臼三台、そば打名人一〇人をやとって、一日一八貫のそばを打って凍そばを作り、リヤカーで駅まで運び発送したそうです。その頃は、ほとんどがお盆の贈答用に珍重されたようです。この凍そばを復活したいという話を恵志子さんに話しているときに信毎に凍そばの記事が掲載され大問題となった。かつら屋の特許であるということであった。再三かつら屋を訪れ村おこし事業についての理解を求めたのです。
 その冬に五岳会が凍そばの試作に取組んだ翌六一年、村おこし組合信州黒姫高原ファミリーファームに手打ちそば班(代表若月一子)を組織し、農産物加工所で本確的に製造を開始した。寒中天候を見はからって集り凍そばを製造した。大変な仕事である。今年も計画的に製造された、まぼろしの凍そばが復活したのである。ふるさとの味、安全で「本もの」嗜好の時代だけに凍そばの人気かますます高まることを祈りたい。

おくらぶち もくじ